1974年、博多湾に面した福岡市中央区の福浜団地で生まれ育ちました。新聞社勤務で新聞労連中央執行委員も務めた父・洋一さん(75)と小学校で調理員として働いていた母・佳子さん(73)は、地域や職場で中心的に活動する日本共産党員。小学生のころは学童保育に通い、自宅では7歳上の姉と4歳上の兄に遊んでもらいながら成長しました。

 両親によると、幼いころの良子さんは「周りのおとなに気遣いができる子だった」といいます。

 中学時代はソフトボール部に所属。地元の私立高校に進学すると、勉強もほどほどに山田洋次監督の映画に夢中になります。

就職難に直面、そして民青同盟に

 同じ高校に通った女性(42)は、当時の良子さんについて「誰とでも仲良くなれる明るい性格で、いつも人の輪の中で笑顔を見せていた」と語ります。大手芸能事務所のオーディションに応募し、友人とコンビを組んだ漫才がテレビで放送されると、「度胸あるね」と周囲を驚かせました。

 幼少期から活発で明るい性格だった良子さんでしたが、進学した短大で就職難の壁に直面します。

 選考に関する資料を請求した50社のうち、返信があったのは4社だけ。男性の面接官から「5年以内でやめる女性はいらない」と切り捨てられ、「これまで頭の中にしかなかった女性に対する就職差別の実態を肌で感じ、怒りがこみ上げてきた」といいます。

 同時に、こうした社会の矛盾をただしたいと決心した良子さんは、友人から紹介を受けて民青同盟に加盟しました。班会議で就職難の背景にある政治や社会の問題について学び、「社会を変える展望が見えて、驚きと発見の連続だった」と振り返ります。

若者の苦難に寄り添いたいと入党を決意

 民青で活動する中で「青年の生きづらさに心を寄せる党の一員になりたい」と思うようになり、20歳で日本共産党に入党しました。

 「なんとかしたい」との強い思いで結成した「就職難に泣き寝入りしない女子学生の会」(福岡)では、自らの実態に重ねながら「就職先が決まらないのは、自分の努力が足りないからだ」と悩み苦しむ学生たちの声を聞き取りました。

 当時、民青県委員会の専従だった山田博敏さん(53)=現・党県委員会青年学生部長=は、「会のメンバーと一緒に就職説明会の列に並ぶ数百人の学生たちに次々と声を掛け、アンケートを取った」と語ります。

 そこには、同世代の苦難に寄り添い、自ら行動する良子さんの姿がありました。続く


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 「これまでの学びや経験を生かし、人と社会に役立つ仕事がしたい」と考えていた良子さん。大学卒業後は、全医労福岡地区九州医療センター労組の書記として、国立病院の独立行政法人化や看護師の2交代制に反対する運動に取り組みました。労組では唯一の専従者で、大病院を任されていた良子さん。当時の同僚だった女性(40)は「医療現場で働く人の実態を細かく把握していて、組合には欠かせない存在でした」と語ります。

イラク攻撃反対!若者と平和運動

 その傍ら、民青の県委員としての活動にも積極的に参加。職場の同僚や両親の反対がありながらも、1999年に県委員会の専従になることを決意しました。

 県内の労組や民主団体と協力して平和友好祭を開き、高校生たちが自主的に学びあう「自主ゼミナール」の活動を通して高校生班も相次いで立ち上げました。

 2001年に県委員長に就任すると、「日本共産党といっしょに日本をかえるネットワーク福岡」を立ち上げ、自らデザインを手がけた宣伝力ーでキャラバン宣伝を実施。米国によるイラク攻撃に反対するデモに県内の若い世代を率いて参加し、「3人からでも声を上げようと、スニーカーの底が擦り減るほど歩き回った」といいます。

 当時、民青県委員会の専従だった田中美由紀さん(41)は、「良子さんは、自ら立てた目標を基本的にやりきる人でした。私にとって心強い存在で、専従者としての悩みも真剣に聞き入ってくれました」と振り返ります。

青年の思い政治に届けたい

 2003年には、民青の活動の中で出会った研究者の夫と結婚。2006年から党福岡県委員会で勤務し、青年学生部長になってからは、中高生を対象にした「無料塾」の活動を支え、深夜の繁華街でネットカフェ難民の実態調査に取り組みました。派遣切りが横行した2008年には、トヨタ(福岡県宮若市)や日産(同県苅田町)の工場前で宣伝し、生活相談や要請行動などを通して派遣労働者を勇気付けました。

 「政権交代に青年の期待感が高まる中で、うまくいかないことも多かった」と葛藤を抱きながらも、良子さんは「お金の心配なく学びたい」、「人間らしく働きたい」と願う若い世代の思いを政治に届ける役割を担ってきました。

 後任で民青県委員長に就任した林竜二郎さん(34)=現・民青中央副委員長=は、この頃の良子さんについて「青年の状況を真剣に考え、すぐに行動できる人で、一人ひとりの進路や生活のことまで相談に乗っていました」と振り返ります。

 2009年には長女が、2012年には次女が生まれ、家庭もにぎやかになりました。


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 良子さんの人生に転機が訪れたのは、2014年の冬でした。衆議院の解散を受けた総選挙で、九州・沖縄ブロックの比例候補として立候補することを要請されたのです。

2児の母としての決意

 まだ幼い2人の娘を育てる中で「子どもたちに寂しい思いをさせることにならないだろうか」との迷いもありましたが、子育てに協力的な夫や両親の支えもあり、「子どもたちの末来のためにも、これまで取り組んできた就職難やブラック企業の問題、子育て世代が抱える問題に政治の場で決着をつけたい」と決意しました。

 当選は果たせなかったものの、約3週間のうちに九州各県を駆け巡る中で「東京に行く覚悟はできています」と訴え、子育て世代を代表する候補者として「子育てカフェ」などに取り組む姿が注目を集めました。

 そして今年3月、「安倍政権の暴走ストップ」への期待を背負い、2016年の参院選比例区に九州・沖縄を活動地域として立候補することをあらためて決意しました。

安倍政治への国民の怒りを実感

 候補者として各地の街頭で訴える中で、戦争法案に対する国民の不安と怒りの高まりを実感してきました。法案が衆院本会議で強行採決された7月15日には、下校途中の高校生からも「戦争させないために頑張ってください」と熱いエールが送られ、横断歩道で同世代の母親が大きく手を振る姿も目にとまりました。

 つどいや演説会でも「2児の母として、戦争法案は絶対に許すことができません。なんとしても廃案に追い込み、憲法を守り生かした国づくりを進めたい」と決意を語ります。

 環太平洋連携協定(TPP)反対などの一致点で実現したJA福岡中央会との意見交換(8月17日)では、「若い人が農業で展望を持って働けるようにしたい」と抱負を語り、たちまち意気投合。7月には、熊本県水俣市で水俣病不知火患者会から要望を聞き、「被害者に寄り添えるのが共産党のよさ。ぜひ当選していただきたい」(大石利生会長)と激励を受けました。今後は、各県の弁護士会との懇談も予定しています。


 九州電力川内原発の再稼働に反対する抗議集会や米軍新基地建設反対のたたかいが続く沖縄県内各地にも足を運び、「勝つためには諦めないこと。私たちが諦めず、声を上げていくことが大事です」と熱い連帯の意思を示してきました。

   

 九州・沖縄で初の党女性国会議員を誕生させようと、各地で女性や子育て世代のつどいも取り組まれています。いせだ候補が語る姿を見ていた高齢の女性は「いつでも国会議員になれる人だ」と語りました。終   

(「いせだ良子物語」はしんぶん赤旗「西日本のページ」に8月27~29日で連載されました。 )

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